「それでも今日は好い日だ」

猫と裁縫と日常の雑記。

たまにはまじめなことも考えている。


職場の休憩室で話題になったことなんですが、国連総会でも話題になっていたようですね。いやなかなかどうして、職場の休憩室も侮れない。
(注:国連のほうが先)
死刑執行停止に関して、賛成多数だったようだ、と。そのことです。
法的拘束力はないとしながらも、まぁそれって「空気読め」的なプレッシャーを与えるよね。
でも空気読めない人って意外と多いから、法的拘束力は……と前置きした段階で、彼らは負けてると思う。


とまぁ、そんなことはさておき。
私個人としては死刑存続にとくに賛成も反対もしないという、日和見的な立場をとっています。主義思想に関するようなことをこのブログで書くつもりも(あまり)ないし。
ただ、納得いかねーなー、と思うことはあります。
それが今日、職場の休憩室でなんとなく話題になって、みんなで「そうだよねー……」となったこと。


犯罪者の人権擁護が必要か否かに関しても、まぁどうでもいいんです。
私自身、周囲の親しい人が刑事犯罪に手を染めたり、逆に犯罪に巻き込まれたりしたことはないので、実感として感じられないからというのがまず一番なんですが。
死刑の存続自体が、犯罪の抑止力たり得るか否かに関しては、これはある意味否定派かも。
軽い気持ちで犯罪を犯してしまうお馬鹿さんには、死刑という事実は有効かもしれません。
けれど、「そこまで思い詰めた人」を抑止する力にはならないでしょう。
だから、犯罪の抑止力としての死刑存続は、まぁどっちもどっちだよなぁ……とこれまた日和見なんですが。


ただね。
現実として、今の日本(及び死刑存続している諸外国)では、死刑が決まってから何年も何十年も執行されないんですよね。
その間、その人たちを養う費用は税金から払われているわけです。
そして一方で、生活保護を受けられないギリギリの収入の人や、それでいて介護や病気治療のために費用がかかってしまう人たちは、逼迫した経済状況になっています。
この、エコロジーという概念に今ようやく目覚め始めたばかりの飽食国家の中にあって、餓死する人が現実にいるわけです。
「犯した罪はあなたの生命で償いなさい」と、法のシステムによって宣告された人間は、衣食住が完全に保障されていて、ただひとつ社会的な自由だけはないけれどともかくも健康的な生活を営むことが出来ているのに、餓死する人がいる。老いた妻と2人、生活に絶望して火葬場の焼却炉に入り、自ら炉に火をいれた老人がいる。
それは何なんだろう、と思ったわけですよ。


冤罪の可能性が残っていて云々という理論もわかります。だからそれは徹底的に審理していいけれど、犯した罪も、それによって下された法の裁きも全てが確定しているのに、徒に引き延ばすことはどうなんだろうね。
日本という国が独裁国家ではない以上、法というのは大多数の意見だと思うんですよね。
その根幹の是非を問い続けることは大事だけれど、法によって裁かれたのなら、それに従うのが筋なんじゃないかと。そうでなければ法治国家として拠って立つところがないじゃないですか。
そしてその「法」が、犯罪者に対して「命を差し出せ」と宣告しているんです。


それでも殺せないというのなら、じゃあそれはそれでいいです。
なら、働かせろ、と。そう言いたい。
他人と触れあわない、他人に迷惑をかけない範囲で、自分の食い扶持くらい自分で稼げ。
働かざる者食うべからず。


まぁ実際、日本の赤字財政を解消するためには、少数の死刑囚を働かせるとかそういうことよりも、もっといい案があるんですケドね。
「責任をとって辞職しまス」とかいう政治家たちを辞めさせなければいい。
辞めることは放り出すことであって、決して責任をとっているわけではない、というのが私の考え方です。
責任というのは、やり遂げること、やり続けることでようやく果たされるべきものだと思うので。
「だからって、議員を続けさせてたらまたそいつらが儲けるだけじゃないか」と仰る向きもあるでしょう。
そこはあれですよ。
給料なんか払わなきゃいいんですよ。
「辞職するわ」ってくらいなら、ただ働きしろよ。
ただ後任に丸投げしただけで責任なんかとれるものか。辞職したいならさせてやる。ただし、1年なり2年なりただ働きしてから。その間の報酬は全て算出して国庫に納めればいい。
失言は罰金制、失態はただ働き、政策ミスはただ働き+クビ。
そうすれば国庫の赤字くらいすぐ解消されるだろうに。


とまぁ、そんな風に、この国の未来について思いを馳せてみた一日でした。
話のもとは、来年の春から、煙草を買うのに証明カードが必要らしい、しかもそれが有料らしいと聞いた喫煙者たちの憤慨なんですケド。


話ってどんどん大きくなる。