「それでも今日は好い日だ」

猫と裁縫と日常の雑記。

電子書籍は略して電書というらしい。

鳩みたいダネ(字が違う)。


まぁ、それはともかく。
たまにはまともなことも書いておくのだ。



ちまたで最近流行りの電子書籍というものを時々考える。
たとえば、レコードやカセットテープがCDに取って代わられたように、本も電子書籍に取って代わられてしまうのかといったようなことを。
ネット上で気になる記事やコラムを見つければ、とりあえず目は通してみる。
私はまだ電子書籍を(最近の形では)体験してはいないから、まずは情報収集。


その中で、最近読んだのはコレ。
電子書籍7つの不安


なるほどそのあたりが、代表的な不安例なのか。
……私がもっとも気にするあたりが論じられていないのがちょっと不満。
私が何を気にするのか。それは、単純だ。
「その本は、50年後も読めるのか」


電子書籍というのは、良い点も様々にあると思う。たとえば、膨大な量の書籍を買い集めても部屋の床が抜けないとか、書棚があふれないというのは、最大の美点かもしれない。本の山に蹴躓くこともないし、検索機能を使えば「あの本どこだっけ。……あ、これナツカシイ(目的と違う本を発見)」といったこともなくなる。
そして、私がDSでひとつの形を発見したように、その機械ひとつを持っていけば出かける際に大量の本を持っているのと同じというような嬉しさも美点だと思う。
紙に印刷・製本するよりも安く流通できるとか、インターフェースは進化していくものだからこの先もっと期待ができるとか、そういった点において文句はない。


ただ、電子書籍は50年後に読めるんだろうか?
読めるかもしれない。50年後の科学力を私は甘く見ているのかもしれない。
けれど、50年前のデータは、今のパソコンで読めるだろうか?
50年前じゃなくてもいい。私がパソコンを始めたのはWindows95が出た1995年。今から15年前。その前にもMS-DOS機を触ってはいたけれど、自分用として持ったのはWin95が初めてだった。
当時の記録メディアといえば3.5インチFD。今は、一般に売られているパソコンではディスクドライブはついてないよね。つい先日、惜しまれながら引退した我が家の旧PCには、わざわざオプションでFDドライブつけていたけれど。もちろん今でも、FDドライブを外付けで買ってくればいいんだろうけれど。
知識と技術のある人なら、15年前のFDも読めるだろう。けれど、あと10年経ったら?
翻って、紙媒体。15年前の書類、50年前の書籍、もっともっと前の古文書。
そう考えてみると、紙+インクという記録メディアはとても優秀だと思う。
もちろん50年前、100年前の文学作品だって電子書籍青空文庫で読めるけれど、今はそういうことを言ってるんじゃないので割愛。


紙の質感だの、ページをめくる時の感覚だのは些末なことだ。本を読むという行為はそういうものとは別次元にある行為だから。
だから、「本を読む」という行為だけなら、それは電子書籍で代用可能だと思うけれど、「本を持つ」という行為は電子書籍では不可能だと思う。
本を持つ。そしてその本を伝える。
これ自体、そもそも時代錯誤な感覚かもしれないけれど、私は、実家の古い本棚にあった日本文学全集と世界文学全集を読んで、読書好き・本好きになった(多分)。
それは発行年数から考えても、今は亡き父が若かりし頃に買いそろえたものだったはず。古くさい装丁のその本を、まともに読めたのは小学校高学年になってからだったけれど、それらがずっとそこにあって、いつか自分が大きくなったら読めるなぁと思っていたことを覚えている。
残念ながら、電子書籍にそれはない。


それは単なるノスタルジーではなく、紙媒体の書籍が、ハードとソフトを兼ね備えたものだからだ。
現在、一般に流通している電子書籍というものは、まず電子書籍リーダーというハードを入手するところから始まる。その上で、書籍というソフトをダウンロードし、リーダーで読む。ハードとソフトがそろわなければ読めない。今はケータイやi-phone、スマートフォンでも読めるけれど、それでもハードとソフトがなければ成り立たないのは同じ。
でも、紙の書籍は違う。紙の本は、ハードであり、ソフトだから。
その一点だけで、私は、レコードがCDに取って代わられたような、そんな事態にはならないと思う。
レコードやカセットテープは、ソフトだ。プレーヤーというハードがあって初めて成り立つ。DVDやブルーレイに取って代わられそうなビデオテープもそう。以前、私がレーザーディスクを処分したように、そしてその代わりにDVDを買ったように、ハード+ソフトという形態は、新しいものが出れば取って代わられる運命にある。
けれど、本はそこが違う。本を読むのにハードはいらないのだから。


ハードのいらないソフト、だからこそ本は所有されるし、所蔵される。そしてそれらは人の手を渡り歩く。友人との貸し借りだったり、親の本棚から子供がそっと抜き出す行為だったり。
実家に帰れば40年前の本を読むし、自分のマンションでだって、20年前の本を読む。家族の蔵書を読み、自分の蔵書を読み、友人の蔵書を借りる。
私の家がもっと歴史ある家だったならば、50年前、100年前のものも残っていたかもしれない。
電子書籍のストアに購入履歴が残っているかどうかは「蔵書」じゃなくて、ただの読書記録だ。


紙媒体の本に関して、私がライターとして一端の末席の風下代理補佐兼務心得にいるからというだけの理由ではなく、私は紙媒体の本は駆逐されずに残ると思う。
ただ、電子書籍のメリットも否定できない。おそらくは私が書いているような、旅行雑誌の宿紹介なんてものは真っ先に駆逐されるだろう。それこそ電子書籍で十分なのだから。
おそらくは、「蔵書」になり得ない、雑誌やゲームの攻略本、MOOK本、そういったものから電子の波に飲み込まれて、紙が廃れていくんだろう。
けれど、週刊誌を買っていても、連載されているお気に入りの漫画の単行本は買うように、「お気に入りを手元に置く」という欲望から、人は逃れられない。
だから、電子書籍が十分に普及したとしても紙の本はなくならない、自分の願望として、そうあって欲しい。