「それでも今日は好い日だ」

猫と裁縫と日常の雑記。

校了日が過ぎて。

一昨日、校了日でした。そこそこイラつきました。
でも私にはまだ信じている営業さんが何人もいる。だから大丈夫。
なのでなんとか無事に終えることができました。
この仕事にとって、校了日というのは、それを目指して駆け抜けるもので、そこにさえたどり着けば、ライターはしばらくお休み。
……が。今月はそうもいきません。
全国版の別冊が、密かに始まっているのです。
いや、本誌校了日の3日前にミーティングがあったから、別に「密かに」でも何でもないし、それを言えば、我々は先々月からその別冊の存在を知っていたんですけどね。
でも、本誌の校了日を終えるまではまともに動けないのが正直なところ。営業さんたちからの書類もそろってなかったし。


そうしてやっと書類もそろって、本誌も終えて、別冊にとりかかったら……(サザエの声で)なんということでしょう。そこにはとうてい終わるとは思えないスケジュールが広がっていたのです。
外壁とエントランスはシンプルながらも重厚な造り、段差を無くして誰でも1P、1/2Pの仕事がとれるバリアフリー設計。1P、1/2Pの寝室には多コマという名のウォークインクローゼットを完備。本誌校了日からキッチンを抜けてすぐに書類の締め切り、校正さんによる原稿チェックの日も短く、来週半ばにはもう別冊校了日が控えるという短い動線。
生まれ変わった我が家に、ライターたちの笑い声が響き渡ります……。


終わらないかもよー?



……まぁ、それはともかく(いいのか)。
そしてなんだか長くなったので隠す。



以前から時折考えていて、でもいつも答えの出ないことをまた考えてみたりします。
つまり、公平と不公平はいつでも紙一重だということを。というよりも同じ紙の裏表なのだということを。
わかりやすい喩えとしては、背の低い人には短いベッドを、背の高い人には長いベッドを用意するのが公平か、それとも2人ともに同じサイズのベッドを用意するのが公平かといった問題です。
仕事に置き換えると、仕事のできる人には大量の仕事を、できない人にはその人が間に合う分だけの仕事を与えるのが公平か、どちらにも同じ量の仕事を与えるのが公平か。
どちらにしろそれは、公平の極みは不公平の極み。どちらも公平であり、どちらも不公平なのはわかってるんですけども。


まだ盗んだバイクで走りだしたかった頃は、それがとてもとても不公平に思えたのです。というのも、自分はその時、その職場において、その職分を果たす限りにおいては有能だと信じていたので、どう考えても私がこなしている仕事が、同僚(というか、部下であり先輩でもあった女性)がこなしている仕事の1.5〜2倍はあったのじゃなかろうかと。それでお給料は彼女のほうが、年数の分だけ多かったわけなのだから、これはどう考えても不公平だと。
つまり、当時は月給(+残業の時給)だったので、仕事が早ければ早いほど損をする仕組みになっていたのです。


ただ、その件に関しては、私も年を取って円くなったので、自分なりの納得を見いだしました。確かに仕事量としては損をしているし、それで自分のほうが給料が安いとなればそれもまた損です。そういう意味では確かに当時の自分は有能だったかもしれないけれど、それを不公平だと考える程度には愚かでした。
年をとって考えてみると、どれだけ損を引き受けられるか、そして引き受けた損をどれだけ自分の利益にできるかということこそが有能さの証だったんじゃないかと思います。
わかりやすく言うと、「同じ給料であいつはこれだけの働きをしているな」というのは、上司にも同僚にもいつかは通じるとでもいうか。おてんとさまが見てるなんてことは言わないけれど、少なくとも自分自身だけは必ずそれを見てる。それに上司や同僚だって、何も言わないけれどだいたい見てるんですよね。それは、自分が部下や上司、同僚に対して見ていたのと同じくらい。それは損じゃない。
疑うにしろ信じるにしろ、自分が「他人を見る目」を持っているのだとしたら、他人にもそれは必ずある。その基準が自分とどれだけ違っているのかはわからないけれど、必ずある。
そう信じれば、まぁ納得はできました。アノオンナの2倍働いたのは、アノオンナよりも私が2倍優秀だったからで、それを証明できたあの時間は、少なくとも自分にとって無意味ではなかったから。
公平不公平を論じることこそが無意味で、誰に対して公平かというより、自分にとって無意味ではなかったのならそれでいい、という類の納得でした。
だから当時の私は、それを損だと考えていた点で有能でも何でもなかった。その仕事しかできない人間だった。


そして今、月給や時給ではなく、1本いくらの成果報酬でオカネをもらうようになって、またその公平不公平の環にはまり込もうとしています。
というのも、仕事の依頼をとった後(いや、とる前から?)は、ほぼ全てがライターの自己裁量に任されているので、どれだけ働くか、何本書くか、何時間かけて書くか、そういったこと全てを自分の責任において決めます。最終的に校了日に間に合えばそれでいいのです。
自分の力量を見誤って仕事を取りすぎるとパンクするのが関の山、かといって控えめにしていたのでは次月の生活が成り立たない。そのあたりを見極めながらみんな、仕事をとるわけです。
が、仕事が多い月や、今回のようにスケジュールがきつい時は、仕事があまりがちです。あまったからといってうち捨てるわけにはいかず、それも終わらせねばならないので、我々を管轄する部署の人たちは、どうにかして「あと1本お願いします」とか「あとこれとこれお願いします」を言ってまわらねばなりません。
その時に、その人々がよく言うのです。「みなさんの作業量を見て、公平に残りの仕事を分担しています。ご協力ください」と。
公平に。


さて、この公平は、公平の極みだろうか、それとも不公平の極みだろうか。それはもう仕事を受け取った人のとらえ方次第なんだけれど。
でも、たとえば月に50本書ける人が、その月に35本しか取らずにいて、一方、がんばっても月に30本という人が、その月に30本取ったとしたら、残った原稿を「公平に」まわす時、どちらにまわすでしょうか。
成果を見て公平にするのか、それとも余力を見て公平にするのか。
余力、というのまた微妙です。
50本書く人が35本取ったけれど、そのうち15本しか終えていない時、30本書く人が30本取って、そのうち20本終えていたら?
残り20本に対して、一方は残り10本です。けれどそもそも、同時点で15本しか終えていないのに対し、もう一方は20本終えてます。前者がゆるく仕事をしていて後者はがんばったのだといえなくもない。
けれど、成果だけを見れば、最終的に35本対30本になります。そこに、余った仕事を前者にまわすことは、公平感を損ねるような気もします。かといって、後者にまわすとすれば、いつもよりゆるい感じで終えた人対いつも以上に頑張らねばならなかった人ということになってしまいます。
最終的には、時給や月給での話ではありませんから、どちらにしろ、やった分の報酬は当人に渡るので、金銭面での不公平感や損得にはならないことが救いですが。


私は気が短いので、そういったことを丹念に考えるのは苦手です。「公平に…」と管轄部署の人が悩み始めた段階で、そこから2〜3本かっぱらってきます。よほど余裕がない時でなければ。
それなりに計画性を持って、余裕を持って不慮の事態に備えるようにしているので、2〜3本増えたところであまり影響はないからというのもありますが、公平不公平の、個々人の価値観の違いを見るのがイヤだからというほうが大きいようにも思います。


そう。本当に、本当に、価値観というのは個人によって違う。
何が損で何が得なのか、本当に損をしているのは自分だけなのか。それは被害者意識と自己偏愛が歪んだ結婚をしているだけじゃないのか。
自分がいちばん可哀想だという人は、きっと他人の愚痴を聞いてあげられないのだろう。他人の愚痴を聞けば、すぐにこう返す。「自分なんかもっとひどい」。……本当に?
「自分」以外の人だって、結構大変ですよ?
あなたは優秀だから、確かに多少、損は引き受けているかもしれないけれど。
でももう少し、想像してあげる余地を残しておいてもいいと思うんです。


公平不公平の途切れない環にまたはまりこみそうになっているのは、欲が出てきたからかもしれません。自分が納得した論理を他人にもわかってもらいたいと。
自分がいちばん可哀想な人に、自分だけが損をしている人に、「不公平だ」と叫んでいる人に、それはあまり意味がないよと伝えたいからかもしれません。
「不公平だから」といって、自分がいつもよりも余力を残してその仕事を終わらせたら、ほんのりと罪悪感が芽生えるような気がするんです。「あと2〜3本だったら書いてあげられたな」と。
いつでも100%、いや120%の力を出し切れとか、そんなアホみたいなことは言わないけれど、少なくとも私は、自分ができる精一杯(または、自分が思う必要十分)をやらなかった時に、自分が抱くであろう罪悪感がイヤなんです。罪悪感は人を卑屈にするから。


うーん。でもどっちが公平なんだろう。