「それでも今日は好い日だ」

猫と裁縫と日常の雑記。

いつも思う。

以前、ケータイを見ながら歩いていて、周辺への注意が散漫になっている人がとても鬱陶しく腹立たしいというようなことを書いた(ように思う)。
ケータイ見ながら自転車に乗ってる人なんか、本人は「自分は大丈夫」と思ってるのかもしれないけれど、はたから見れば危ないし邪魔くさいし、半径3m以内に近づいて欲しくない。
つい先日も、横断歩道でこんな経験があった。
私(自転車乗車中)の前に何人か信号待ちをしていたので、歩行者の近くに行くよりはと思い、自転車に乗った女性のすぐ後ろにつくことにした。そうすると、信号が変わる少し前、私の前にいたその女性がポケットからケータイを取り出して眺め始めたのだ。混んでいた交差点だったので自転車を動かすこともできず、私は待つしかなかった。信号が変わっても彼女はケータイを眺めたまま動かずしばし。ややあって、ゆっくりと自転車をこぎ始め、彼女がわずかながらも進んだことで、私は新たなる進路を確保できたので、そちら側から追い越そうとした。その直後、ケータイを手にしたままの彼女の自転車が揺れて、危うく私と接触するところだった。
聞こえよがしに大きな舌打ちをした私は、それでも我慢したほうだと思う。


以前、ここでだらだらと文句を書いた際は、自分や他人の安全も顧みず、ベビーカーを押しながらという若い母親に至っては我が子の安全すら顧みず、そうまでしてケータイに見入る人々に、それほど重要な情報が配信されているのかと思ったものだが、ひょっとしたら少し違う心理なんじゃないかと最近は思うようになった。


ケータイを見ながら、という種族の他に、携帯プレーヤーで音楽を聞きながら、という種族がいる。
BGM程度の音で聞いているだけならまだしも、結構な音の大きさ(最新技術をもってしても音漏れするような大きさ)で音楽を聞いている人々は、外界の音が聞こえていない。
自分が好む音楽を常に聞いていたいという気持ちはわからないでもないが、移動する時くらい外界の音を聞いたほうがいいんじゃなかろうか。自他の安全のためにも。
けれどそうやって、目を閉じる人々と耳を塞ぐ人々を見て思ったのだ。彼らは、そうやって殻に閉じこもることで、「空気を読まない」ことをアピールしてるんじゃないだろうかと。


少し前からは「空気が読めない」ことが恥ずかしいことになっている。本来、場の空気を読むことは人間関係の重要なファクターで、殊更に新しいことではないのだけれど、「空気読めない」という文言が流行ってしまってからはそれが歪んだクローズアップをされ始めていると思う。
そして人間はよく、「できないんじゃない、やらないだけだ」という言い訳をする。この言い訳が、空気を読める読めないに対しても発動してるんじゃないだろうか。
「空気を読めないんじゃない、読まないでいるだけだ」。やればできるけどね、という可能性への示唆が見え隠れするこの言い訳が成り立つように、人々はさして緊急の用でもないケータイに見入り、道行くおばあちゃんに「すみません」と声をかけられても気付かない音量で音楽を聞き続けるんじゃないだろうか。


そうでなければ、純粋に外界が怖いのかもしれないとも思う。自分へと干渉する音や景色を自分の好みのものに限定して、そうまでして遮蔽しなければ外も歩けないほど、人は弱くなったのかもしれない。
休憩時間や移動時間、食事の時間、それら全てに、ケータイか音楽プレーヤーというツールがなければ、その時間を過ごすことも出来ない。人はそんな風に脆弱になっていて、そしてその分、おそろしいほど無頓着にもなっている。
以前、コンビニ前や地下街などで平然と地面に座り、カップ麺やハンバーガーを食べる若者たちを見て驚いたことがある。その社会現象に対して、雑誌か何かで識者とやらが「自分の部屋にいる感覚を外にまで拡大している」と解説していた。なるほど、と思った。他人の目を意識しないことで、ああやってどこにでも座って好きなときに好きなものを食べ、あまつさえ人前で化粧までするのだな、と。
この無頓着さと、ケータイや音楽プレーヤーに頼る脆弱さとは一見相容れないように思うけれど、外界に対して鈍感でいられるという点では共通している。


例えばバスや電車を待つ間、書物(本でもいいし、漫画でもいい)を読む人はいる。けれど、駅についてからも本を目の前に広げたまま改札を抜けて外に出ようとする人間に対しては、「歩いてる時くらい読むのやめればいいのに」と他人は思う。
新聞を読みながら食事をしてご飯をぽろりとこぼしたり、電車の乗り換え時にコンコースで人とぶつかったりすれば、「新聞おろさないからだよ」と他人は思う。それがケータイや音楽プレーヤーであれば容認されると思っている節がある。
自分なら許されるという根拠のない優越感なのか、それとも、自分以外の他人を排除するから他人の許容など関係ないというシールドなのか、そのあたりはよくわからないけれど。
そして、これらの傾向が、人が自由になっていく過程なのか、堕落していく過程なのかもわからないけれど、「それをしない人々」にとって、「それをする人々」が不愉快な存在であることは事実だ。



……っていうかさ、外にいる時くらいは自分以外のものの動きに敏感になろうよ。
ケータイ見ながら歩いて、身体の不自由な人にぶつかったりとか、音漏れイヤフォンを耳に突っ込んだまま突っ立って、後ろで「すみません、ちょっと……」と通りたい人がいるのに邪魔してたりとか、イクナイよ。
そんであれでしょ? そういうのに業を煮やした人が「ちょっと失敬!」とか大きめの声出して、肩先をちょいっと触ろうものなら、そしてたまたまそれが中年のオッサンだったら、「ぃやー! ちょっとナニアレーありえなーい。普通、いきなり触るー!?」とか文句言うんでしょ?
アリエナーイ。