「それでも今日は好い日だ」

猫と裁縫と日常の雑記。

良識テスト。

うーん。オシゴトのほうでは、ちょっとした人間関係に巻き込まれそうなオカン。
自身、不惑を目前にしながらも、まだまだおとなげないお年頃。
そんな私が言うのもなんだけど、多分、ある程度は若さのせいもあるんだと思うのよね。
あとは、お互いにちょっとずつ妥協点を間違えると、意地の張りどころまで間違えてしまうようなことが。
そしてそれを、「相手がこう言った。これはこうだと思う。だから相手のあの発言は間違えていると思う」という主張として何度も自分の中で、そして他人に向けて繰り返していると、だんだんとそれが確固たる事実になっていってしまう。


物事っていうのは、いつだってあやふやなもので、主観と客観でまるで違うように見えたりもするし、主観だけをとってみても、その時の自分の精神状態や、相手との人間関係で反応が正反対になることもある。
そんなふうに曖昧な輪郭線は、曖昧なままで保存しておけば、どこかに正解の線が含まれているんだと思う。でも、他人に向けて繰り返しアウトプットをすると、自分の希望を含んだ線が強化されていって、次に自分が「清書」した時には、正解だったはずの線を取り落とすかもしれない。
私のみる限り、彼女たちは互いに少しずつ正解を取り落としている。
もちろん、正解というものがあればの話だけれど。


20代、とくに半ばくらいまでは私自身も意識していなかったことだから、それを他人に求めるのはいかがなものかと思わないでもないけれど、例えば、3年前の自分の言動が少しでも恥ずかしいと思うなら、少なくとも3才上の人は現時点で、自分自身に対して同じことを思っているかもしれない。そんな見栄で自分を制御しようと思ってはくれないだろうか。見栄というのも存外に大事なものだ。
誰だって自分の昔の言動は恥ずかしい。それは今の自分に比べて幼さが隠しきれていないから。
あの頃は幼かった、と、たった3年前のことをそう思うなら、今だって同じなんだと思い至ってくれるだろうか。3年前、5年前のことが恥ずかしいなら、今の自分を、年上の人はそう見ている。


……という謎の検分を経て、今日、見聞きしたことをマネージャーに伝えるかどうか。
見聞きしたことが、社会のルールや会社のルールに反していることだというのなら、伝えるか否かの判断はもっと単純だ。そういう問題なら、私は自分の感情に従うことにしている。「やっちゃいけない」と思うか「やっても仕方がないヨネ」と思うか。前者なら報告するし、後者ならルール違反だとしても口を噤むこともある。
けれど、人間関係の、それもそれぞれの感情が多分に絡んだようなことはなかなかに判断が難しい。


私自身もこうして、アウトプットすることで整理しようとしているけれど、ひょっとしたらこれも、曖昧だった事実を、確固たる、けれど偏った事実に変換しているのかもしれない。


…………めんどくさいなぁ。