「それでも今日は好い日だ」

猫と裁縫と日常の雑記。

政治家ってどうして悪代官顔なんだろう。

(タイトルの続き)とはいえ、現代に生きる私は本物の悪代官を見たことがないので、私がイメージする「悪代官顔」というのは、時代劇における俳優さんの顔なのですが。
本心を見せないことを意識して年月を積み重ねた人はああいう顔になるのかもしれないと思う。


ところで、最近は各所で「死刑」に関する論議が取り沙汰されていますね。
先日執行されたものや、少し前に判決が出たもの、繁華街での凶悪な通り魔殺人の犯人へ求めたいもの(そして自らもおそらく求めていたもの)などなど。
ネットで幾つかのニュースや議論、個々人の意見なんかをざっと拾い読みしてみました。


以前にもこのブログで死刑に関することをちょっとだけ書きましたけども(071219)。
幾つかネットで拾い読みした時に目についたキーワードとしては、犯罪抑止力とか更生のチャンスとか人権とかそんな感じでした。
ただ、歴史的に見てどうなのかは知りませんが、現代では、死刑という単語が犯罪抑止力にはなっていないという意見は多いようですね。逆に「自分を死刑にして欲しいから」という理由で、非道なことをする人も出てきているわけですし。
もう犯罪抑止力としての効力を失っているから、だから死刑は廃止にすべきだという意見もありました。
逆に、効力を失っていたとしても、それでもそれを無くしてしまえばもっと抑止力を失うんじゃないかという意見もありました。


うーん。そもそも刑罰って効力を求めるものなんだろうか。
だってさ、「これをやったら罰されるからやっちゃいけない」んじゃなくて、「やっちゃいけないことをやったから罰される」んじゃないの?
あくまでそれは結果であって、前提であっちゃいけないんじゃないのかしら。
きっと本来はそうあるべきだったんでしょう。倫理というのはそうでなければいけないものだったはず。
けれど、誰しもが自分と同じ倫理を持っているわけではないのが難しいところ。
そうして、わかりやすく形にすると、意識の中ですり替わりが起こるのかもしれない。
「いけないことをやったから罰される」から「罰されるからやっちゃいけない」に。
だから、「罰されるからやっちゃいけない」が効力を失っているから……、または、失っていたとしても……という論理展開になってしまう。


おそらく、法治国家としては間違った論理じゃないんだと思います。
大多数の人がそうと定めて国家を成立させている以上、人は法を信じなくてはならないから。
でも、効力を云々してしまうと、刑罰は途端に見せしめ的色合いを帯びてくるじゃないですか。
「罰されるからやっちゃいけない」と教えることによって、「だからやるなよ」になる。
「やるなよ」と教えるのはいいんだけれど、それは「罰されるから」じゃなくて、「やっちゃいけないことだから」でなくちゃいけないはずなのに。
「罰されるから」として見せしめ的色合いにしてしまうと、「罰されることを覚悟すればやっていいんだ」になり得るんじゃないかしら。
そうして、「むしろ罰されたい」人間が罪を犯す状況も出てきてしまう。


だから抑止力に求められる効力は、副次的なものでなくてはいけないんじゃないかと思うのです。
だって、抑止力って見せしめのことでしょう?
本当に見せしめとしての効力を求めるのなら、古代の国家にあったように、刑罰を公開しなくちゃ意味がない。
見せることによって恐ろしさを知らしめる、それが見せしめでしょう。
「死刑が執行されました」とニュースで流れていても、どんな風に死んでいったのか、私たちは知らされません。
そういうプリミティブなものを見せないのが文化的な行動であって、刑罰は見せしめではないというのなら、効力を云々するのはどうかと思うんですよ。
犯罪抑止力として有効か否かの議論はあまり意味がないんじゃないかしら。


そうやって、見せしめの効果の有無を議論している間に、裁判員制度の実施時期はすぐそこに近づいてきています。
多分、近づいているからこそ、あちこちでそういうお話が出ているんでしょうけども。
死刑執行の命令に署名したくなかった過去の法務相たちと同じ気持ちを、今度は一般人も味わうことになるんですね。


うーん。平成21年か。地デジより先じゃん。
いろいろ考えないとネ。
抑止力以外のものを。